空海は「即身成仏」を唱えました。
生きたまま仏になれる、すなわち悟ることができるという思想です。これは、死後の救済を語る多くの宗教観とは決定的に異なるものだと思われます。悟りは遠い未来に約束されるものではなく、今この瞬間、この身体、この心において可能である――そのような宣言であったのではないでしょうか。そしてその結果として、社会全体が幸福へと向かっていく、そうした構想でもあったのではないかと感じられます。
もちろん、空海が生きた時代背景や精神状況を、現代において正確に理解することはできません。しかしながら、その核心にある発想――「生きたまま悟ることができる」という一点は、時代を超えてなお鮮烈に私たちに迫ってきます。空海自身もまた、その悟りに至った方であったのではないかと、私には思われます。
では、悟りとは何でしょうか。
それは、人は空であり、空は人であるという事実を、理屈としてではなく、存在全体で了解することではないでしょうか。自己と世界、主体と客体が分離しているという思い込みがほどけ、すべてが相互に支え合い、流動し、一つのはたらきとして現れていることを知る。そのとき、人は世界と対立する存在としてではなく、世界そのものとして生き始めるのだと思われます。
しかし、人は煩悩を持って生きています。欲望があり、執着があり、迷いがあります。けれども考えてみますと、人は煩悩があるからこそ活動し、活動するからこそ生きているとも言えるのではないでしょうか。もし煩悩を完全に捨て去ってしまったなら、人はもはや何物でもなく、空になってしまう――そのようにも思われます。
空海の卓越した点は、まさにここにあるのではないかと感じます。
彼は煩悩を否定しませんでした。すべての煩悩を捨て去らなければ悟れない、とは考えなかったのです。煩悩を抱えたままであっても悟ることはできる。そのうえで、人は現実の世界を生きていける――空海はそのことを深く理解しておられたのではないでしょうか。
即身成仏とは、聖人になることではありません。
無欲で清らかで、俗世を離れた存在になることでもありません。煩悩を抱えたまま、それに振り回されることのない智慧に立つこと。世界を誤って見ていた眼差しが転じ、同じ現実がまったく異なる意味を帯びて立ち現れること――それが悟りなのではないかと思われます。
また、空海が目指したものは、個人の覚醒のみにとどまるものではなかったように思われます。一人でも多くの人がこの悟りに触れ、世界の見え方が変わるならば、人の行為が変わり、社会が変わり、やがて世界は幸福へと向かっていく。その意味において、即身成仏は内面の救済であると同時に、きわめて現実的な世界観であり、社会への構想でもあったのではないでしょうか。
煩悩を抱えたまま悟る。
この一見矛盾しているように見える言葉の中に、空海の思想の本質があるように感じられます。人間を人間のまま肯定し、そのうえで世界の真実を生きるよう促す。その静かでありながら力強い声は、千年以上の時を経た今もなお、私たちの足元に問いを投げかけ続けており、今日を生きる私たちにとっても、大きな指針となるのではないかと思われます。


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