投稿者: 無名粗学

  • 四国八十八箇所霊場の巡礼記(3)

    四国八十八箇所霊場の巡礼記(3)

    第三回目の四国八十八箇所霊場巡礼記です。

    今回は、第二十四番札所から第三十六番札所まで、高知県の札所を巡りました。2026年[2026年9月29日から10月1日の二泊三日の巡礼です。

    車での巡礼ですが、高知県まで足を延ばすと、日帰りではどうしても移動に多くの時間を取られてしまいます。そこで今回は二泊三日の日程を組み、お寺や周囲の景色を味わいながら巡ることにしました。

    今回、特に心に残ったのは、海と山の景色です。高知県は東西に長く、札所と札所の間も離れています。車で走っていてもその距離を実感し、歩いて巡礼される方々の苦労を思わずにはいられませんでした。

    訪れたお寺は、それぞれに厳かな佇まいを見せていました。そして、お寺から望む海や、山に包まれた境内の静けさも、深く印象に残っています。

    広い海を眺め、山の静けさに身を置いていると、自分も自然の一部なのだと感じられます。その感覚は、私にとって、仏教の説く宇宙観や「すべては空である」という教えに思いを巡らせるきっかけとなりました。空海もまた、こうした自然の中で、自分と自然のつながりを見つめ、悟りを深めたのではないかと思います。

    それでは、今回巡った札所を、そこで出会った景色や感じたこととともにご紹介します。

    1.第二十四番札所 室戸山 明星院 最御崎寺(ほつみさきじ)

    第二十四番札所・最御崎寺(ほつみさきじ)の本尊は、虚空蔵菩薩です。

    室戸岬の先端近く、急な山道を登った高台にあります。周辺には太平洋を見渡せる場所もありますが、訪れた日はあいにくの雨で、海の眺めを十分に楽しむことはできませんでした。

    近くの海岸には、空海が暮らしたと伝わる御厨人窟と、修行の場とされる神明窟があります。この室戸の地には、修行中の空海の口に明星が飛び込んだという伝説が伝えられています。

    境内の木々は苔に覆われ、雨に濡れた緑からは、南国の森を思わせる雰囲気が感じられました。山門では、お迎え大師像が静かにたたずみ、巡礼者を迎えていました。

    2.第二十五番札所 宝珠山 真言院 津照寺(しんしょうじ)

    津照寺は、室戸市の漁港近くの小高い丘にあるお寺です。急な石段の先に本堂があり、境内には大師堂もあります。多くの人がお参りに訪れており、漁港の暮らしに溶け込んだ、どこか親しみを感じるお寺でした。

    ご本尊は、楫取地蔵(かじとりじぞう)と呼ばれる地蔵菩薩です。海上安全や大漁を願う人々の信仰を集めており、海とともに暮らす町の人々にとって、身近な祈りの場なのだと感じました。

    3.第二十六番札所 龍頭山 光明院 金剛頂寺(こんごうちょうじ)

    金剛頂寺は、海を望む山の上にあるお寺です。狭い山道を登ってたどり着く境内には、海と山の境界に身を置くような趣がありました。

    ご本尊は薬師如来です。室戸の札所を巡る道のりの一区切りとなるこのお寺は、長い道を歩き、疲れたお遍路の方々をやさしく迎えてくれるように感じられました。

    5.御厨人窟(もくろど)

    室戸で忘れてはならないのが、御厨人窟(もくろど)です。室戸岬にあるこの洞窟からは、太平洋が広がる景色を望むことができます。若き日の空海がここで寝起きし、隣の神明窟で修行を重ねたと伝えられています。修行の最中、明星が口に飛び込んだという伝承も残っています。

    貧道は、この室戸の地で、空海が悟りにつながる大きな気づきを得たのではないかと思うのです。果てしない海を見つめ、瞑想を重ねるうちに、自分と自然を隔てる感覚が薄れていく。自分もまた、この大きな世界の一部であると感じる。そのような体験が、空海の「空」への理解を深めたのではないでしょうか。

    洞窟の向こうに広がる空と海を思うと、難しい言葉で語られる空海の思想も、自然を前にした深い実感から育まれたのではないかと想像します。

    5.第二十七番札所 竹林山 地蔵院 神峯寺(こうのみねじ)

    神峯寺は、狭い山道を登った先、山の中腹にありました。山門では、どこか優しげな仁王様が迎えてくれました。

    ご本尊は十一面観世音菩薩です。このお寺でも、山と海の境界に身を置くような感覚を覚えました。険しい山道に自然の荒々しさを感じる一方、境内にはほっと心が和らぐやさしさがありました。

    6.第二十八番札所 法界山 高照院 大日寺(だいにちじ)

    大日寺は、田園の広がる土地にある、のんびりとした雰囲気のお寺です。境内ではイチョウの緑が印象的で、きれいに手入れされた庭にも心が和みました。

    ご本尊は大日如来です。室戸岬を越え、長い道のりを歩いてきたお遍路の方々も、ここではほっとひと息つけるのではないかと感じました。

    7.第二十九番札所 摩尼山 宝蔵院 国分寺(こくぶんじ)

    国分寺も、田園に囲まれたお寺です。奈良時代、国ごとに建立された国分寺の一つで、近くには土佐国の政治を担う国衙も置かれていました。今の穏やかな田園風景からは、かつてこの一帯が土佐の中心地だったことを想像するのが難しいほどです。

    広がる田園を眺めていると、古代の人々も川の水を田に引き、稲作を営んでいたのではないかと想像します。そうした田畑の実りが、土佐の中心地を支えていたのかもしれません。

    山門は堂々としており、土塀に囲まれた境内には、端正なたたずまいが感じられました。ご本尊は千手観世音菩薩です。田園ののどかさのなかにも、長い歴史を受け継いできたお寺の風格を感じました。

    8.第三十番札所 百々山 東明院 善楽寺(ぜんらくじ)

    善楽寺は、土佐一之宮である土佐神社の隣にあります。神社の参道からお寺へと足を運ぶと、門前の集落の暮らしのなかに、神と仏への祈りが息づいているように感じられました。

    善楽寺は、かつて土佐神社の別当寺であり、神仏習合の歴史を持つお寺です。神社とお寺が隣り合う風景にも、貧道は不思議と違和感を覚えませんでした。

    さまざまな神仏への祈りを、悟りへ向かう入り口として受け止める。貧道には、この風景が、空海の思想に感じる懐の深さと重なるように思えました。

    ご本尊は阿弥陀如来です。神と仏がともに人々の暮らしを見守るような、親しみを感じるお寺でした。

    9.第三十一番札所 五台山 金色院 竹林寺(ちくりんじ)

    竹林寺は五台山の上にあり、隣には牧野富太郎博士の業績を記念して設けられた牧野植物園があります。

    境内には五重塔がそびえ、山門にも堂々とした風格がありました。堂塔の立派なたたずまいからは、長い年月をかけて大切に守られてきたお寺の歴史の厚みを感じます。

    ご本尊は、智慧をつかさどる文殊菩薩です。隣の植物園とともに、この山が人々の学びや祈りを育む場所であるように感じられました。

    10.第三十二番札所 八葉山 求聞持院 禅師峰寺(ぜんじぶじ)

    禅師峰寺は、太平洋に面した小高い山の上にありました。境内には独特な形の岩が立ち並び、まるで石庭のような景観を見せています。その向こうには太平洋が広がり、海を一望することができました。

    山門には長い年月を感じさせる趣がありました。ご本尊は十一面観世音菩薩です。岩の力強い姿と、どこまでも広がる海が印象に残るお寺でした。

    11.第三十三番札所 高福山 幸福院 雪蹊寺(せっけいじ)

    雪蹊寺は、集落のなかにあるお寺でした。境内には稲荷大明神が祀られ、背後には長宗我部元親を祀る秦神社があります。

    秦神社は、明治の廃仏毀釈によって雪蹊寺が一時廃寺となった際に創建された神社です。そうした歴史を経て、今は神社とお寺が隣り合っています。その風景に違和感を覚えないところに、神と仏をともに敬う信仰のあり方を感じました。

    ご本尊は薬師如来です。人々の暮らしのすぐそばで、祈りを受け継いできたお寺のように感じられました。

    12.第三十四番札所 本尾山 朱雀院 種間寺(たねまじ)

    種間寺は、田園のなかにあるお寺です。駐車場も広く、境内にはゆったりとした開放感がありました。堂宇が整然と並ぶたたずまいからは、落ち着いた印象を受けました。

    ご本尊は薬師如来です。周囲ののどかな田園風景と相まって、穏やかな気持ちでお参りできるお寺でした。

    13.第三十五番札所 醫王山 鏡池院 清瀧寺(きよたきじ)

    清瀧寺は、狭い坂道を登った先にありました。境内では、大きな薬師如来像がひときわ目を引きます。その堂々としたお姿を見上げると、自然とありがたい気持ちになりました。

    ご本尊は薬師如来です。坂道を登ってたどり着いた参拝者を、やさしく見守ってくださるように感じられるお寺でした。

    14.第三十六番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺(しょうりゅうじ)

    青龍寺は、横浪半島にあるお寺です。かつては宇佐から船で渡って参拝したといいますが、今は宇佐大橋を渡って訪れることができます。

    駐車場から山門へ進み、長い石段を登ると、本堂が静かにたたずんでいました。本堂を飾る彫刻はたいそう立派で、思わず見入ってしまいました。

    ご本尊は波切不動明王です。海を渡ってこの地を訪れた昔のお遍路の方々も、石段の先にある本堂を仰ぎ、無事にたどり着いた喜びを感じたのではないかと思いました。

    今回は、第三十六番札所・青龍寺までの巡礼となりました。

    高知の遍路道の厳しさを、あらためて感じた旅でした。室戸岬までは遠く、そこからも東西に長い土佐の道が続きます。山が海に迫り、平野が限られる土地だけに、狭い山道や急な石段の先にあるお寺も少なくありませんでした。

    一方で、その道のりは、山と海の美しさに出会う旅でもありました。それぞれのお寺が周囲の自然と調和し、ときにはその荒々しさを、ときにはやさしさを感じさせてくれました。

    こうした風景のなかに身を置くと、若き空海がこの地で修行を重ね、何を感じ、何に気づいたのか、思いを巡らせずにはいられません。山と海に向き合う体験を通して、空海の求めた悟りが、以前より少し身近に感じられる旅となりました。

  • 空海の目指したもの (2)—-なぜ空海の思想は難解に見えるのか

    空海の目指したもの (2)—-なぜ空海の思想は難解に見えるのか

    1.はじめに

    前回のコラムでは、空海の思想を、その著作だけでなく、空海が実際に行ったこと、すなわち事跡から捉えました。そして、次のようにまとめました。

    空海の思想は、その表現と体系においては壮大で複雑です。しかし、目指したものは、仏の教えによって国家を安泰にし、人々を安らかにするという、きわめて一貫したものだったのではないでしょうか。

    それでは、空海の目指したものが一貫していたにもかかわらず、なぜ私たちは、その著作から思想を読み解くことを難しいと感じるのでしょうか。

    今回は、空海の著作を現代の私たちが理解する際に生じる問題について考えてみたいと思います。

    2.空海の著作を読み解く難しさ

    空海の文章を読み解く際には、いくつか注意しなければならない点があると思います。

    漢文で書かれていること

    空海の代表的な著作は、当然ながら漢文で書かれています。しかも、それは現代中国語ではなく、古代の中国古典文を基礎とした文章です。

    私たちが空海の著作を読む場合、まず漢文を読み下し文にし、さらに現代語へ置き換えることになります。その過程では、一つの言葉に複数の訳し方が生じることがあります。

    さらに、仏教用語にはインドのサンスクリットから中国語へ翻訳されたものも多く、その言葉を再び現代日本語で説明しなければなりません。

    このように、いくつもの言語と時代をまたいで意味を受け取るため、同じ文章から異なる解釈が生まれることがあります。

    当時と現代では、言葉の意味や社会背景が異なること

    空海が生きた約千二百年前と現代とでは、政治体制、社会制度、宗教の位置づけ、人々の暮らし、さらには物事の見方や考え方まで大きく異なります。

    現代の私たちは、当時の社会を歴史資料によって知ることはできます。しかし、当時の人々が一つ一つの言葉をどのような感覚で受け止めていたのかを、完全に再現することはできません。

    同じ言葉であっても、その背景にある社会や文化が違えば、受け取られる意味も異なります。その隔たりが、空海の文章を一層難しく見せているのではないでしょうか。

    現代語訳には訳者の解釈が加わること

    古い漢文を現代語に置き換えるためには、訳者が文脈を判断し、最も適切と思われる言葉を選ばなければなりません。

    したがって、現代語訳は、原文をそのまま現代語に置き換えたものではなく、ある程度、訳者の理解や解釈を通して表現されたものになります。

    そのため、同じ著作であっても、訳者によって表現や説明が異なり、ときには内容の印象まで違って見えることがあります。

    私たちは、現代語訳を通して空海の言葉に近づくことができます。しかし同時に、それが空海の言葉そのものではなく、訳者の解釈を経た言葉であることも意識する必要があります。

    3.空海は真理をどのように伝えようとしたのか

    空海自身も、仏の真理を文字や論理だけで完全に伝えることの難しさを認識していたのではないでしょうか。

    そこで空海は、漢文による著述だけでなく、サンスクリットに由来する真言、手で結ぶ印契、仏たちの世界を視覚的に示す曼荼羅、さらには儀礼や身体の動作などを重視しました。

    真言密教では、身体・言葉・心の働きを、それぞれ身密・口密・意密といい、合わせて「三密」と呼びます。空海は、真理を頭で理解するだけではなく、身体と言葉と心のすべてを通して体得しようとしました。

    したがって、空海の思想は、書物に書かれた文章だけで完結するものではありません。

    空海にとって真言や曼荼羅、印契、儀礼は、言葉だけでは表しきれない仏の世界を、時代を超えて伝えるための方法でもあったのではないでしょうか。

    4.事跡から空海の思想の大局を捉える

    空海の著作を詳細に読み解くことは、その思想を理解するために欠かせません。

    しかし、一つ一つの言葉や教義の解釈だけに注目すると、空海が全体として何を目指していたのかが、かえって見えにくくなることもあると思います。いわば、「木を見て森を見ず」という状態です。

    そこで、空海が実際に何を行ったのかという事跡に目を向けることが、思想の大局を理解する一つの手がかりになると考ええるのです。

    もちろん、空海が自ら思い描いたことを、すべて実現できたとは限りません。また、現実の社会では、当初の考えとは異なる方向へ物事が進むこともあります。
    したがって、事跡だけから空海の内面を断定することはできません。

    しかし、空海が何に力を注ぎ、何を残そうとしたのかをたどれば、その思想が向かっていた大きな方向を読み取ることはできるのではないでしょうか。

    空海は、国家の安寧を祈り、人々の教育や生活を支え、多様な思想を真言密教の立場から体系化しました。

    これらの事跡を大局的に捉えると、前回示した次の結論につながります。

    空海の思想は、その表現と体系においては壮大で複雑です。しかし、目指したものは、仏の教えによって国家を安泰にし、人々を安らかにするという、きわめて一貫したものだったのではないでしょうか。

    空海の著作が難解であることと、空海が目指したものが一貫していることは、決して矛盾しません。

    目指したものは明快であっても、それを理論として説明し、異なる思想を体系の中に位置づけ、さらに時代を超えて伝えようとすれば、その表現は壮大で複雑なものになります。

    空海の思想を理解するためには、著作の言葉を丁寧に読み解くと同時に、空海が何を行い、何を社会に残そうとしたのかを見る必要があります。

    「言葉」と「行動」の両方から考えることによって、空海の目指したものが、より明確に見えてくるのではないでしょうか。

  • 空海の目指したもの (1)—-空海の思想をシンプルに捉える

    空海の目指したもの (1)—-空海の思想をシンプルに捉える

    1.空海の思想は本当に複雑なのか

    小生は専門の研究者ではありませんが、個人的な学習として空海について考察を続けています。しかし、空海の著作の現代語訳や解説書を読むと、その思想は非常に難解で複雑なものに感じられます。

    もちろん、空海の思想が高度な体系を備えていることは間違いありません。空海は仏教だけでなく、儒教や道教、インドの言語や思想まで視野に入れ、それらを密教の立場から統合しようとしました。その意味で、空海の思想は決して単純なものではありません。

    しかし、ここで一つの疑問が生じます。

    空海が本当に目指していたものまで、これほど複雑だったのでしょうか。逆に言うと空海の目指したものはシンプルで、それを実現するためには高度な思想が必要であったのではないかということです。

    現代の私たちが空海を難解に感じる理由の一つは、空海が用いた言葉や思想的背景が、現代とは大きく異なっていることにあります。一つの言葉にも複数の解釈が生じ、現代語に置き換える過程で、さらに多くの解釈の可能性が生まれます。

    そのため、空海の思想そのものの複雑さに加えて、時代や言葉の隔たりが、その思想をいっそう難しく見せているのではないでしょうか。

    そこで本稿では、難解な教義の説明からではなく、空海が実際に何を行ったのかという事跡から、その思想の方向性を考えてみたいと思います。

    人が何を考えていたかは、その人が残した言葉だけでなく、何に力を注ぎ、何を実現しようとしたかにも表れます。空海の事跡に目を向けることで、その思想の中心にあったものを、よりシンプルに捉えられるのではないでしょうか。

    2.思想を行動から読み解く

    当時の仏教は、世の中の真理を説くだけのものではありませんでした。寺院や僧侶は、教育、医療、文化、土木など、社会のさまざまな分野に関わっていました。そのため、空海の活動も広い範囲に及んでいます。

    空海の代表的な事跡と著作を整理すると、そこには大きく三つの方向があったように思います。

    一つ目は、国家の安寧です。

    空海は宮中に真言院を設け、密教儀礼によって国家の安泰、五穀豊穣、人々の平安を祈りました。これは、密教を個人の救いだけにとどめず、天皇を中心とする当時の国家秩序を、宗教の面から支えようとする試みだったと考えられます。

    二つ目は、人々の生活を救い、豊かにすることです。

    空海は綜芸種智院を開き、人々に学びの場を提供しようとしました。また、満濃池の修築にも関わったと伝えられています。

    これらの事跡からは、仏教の知識や自らの持つ技術を、現実の社会と人々の生活に役立てようとする姿勢が見えてきます。空海にとって人々を救うことは、仏教の教えを説くだけでなく、人々が現実に直面している問題の解決に力を尽くすことでもあったのでしょう。

    三つ目は、宗教と思想の体系化です。

    空海は『秘密曼荼羅十住心論』などを著し、人間の心を十の段階に分け、その中に儒教、道教、各仏教思想を位置づけました。

    空海は、それらの思想を単に否定したのではありません。それぞれに一定の意義を認めながら、人間の心が深まっていく段階として捉え、最終的に真言密教へと至る大きな体系の中に位置づけたのです。

    3.空海が目指した三つの方向

    以上で述べた空海の代表的な事跡と思想を整理すると、次の表のようになります。ここでは、空海の思想の方向性を明確にするため、極力シンプルにまとめました。

    思想の方向代表的な事跡目指したもの
    国家安寧真言院、後七日御修法密教によって国家と人々の平安を祈る
    済世利人綜芸種智院、満濃池の修築教育や技術によって人々の生活を支える
    思想の体系化『十住心論』などの著述多様な思想を一つの体系に位置づける

    この三つは、一見すると別々の活動のように見えます。

    しかし、国家の安寧を祈ることも、人々の生活を支えることも、多様な思想を体系化することも、空海にとっては一つの目的につながっていたのではないでしょうか。そして何よりも、それは人々が幸福に生きることをめざしていたといえるのではないでしょうか?

    4.空海の思想の核心

    空海が目指した三つの方向から、その思想の核心を一言で表すなら、それは、

    国家安寧と済世利人を実現するため、真言密教を社会にインストールすること

    だったのではないでしょうか。

    ここでいう「インストール」とは、真言密教を単に広めることではありません。真言密教の思想と実践を、国家儀礼、教育、文化、社会事業などの具体的な仕組みとして、現実の社会に組み込むことを意味します。

    空海が目指したものは、国家の安定と人々の救済でした。そして、その実現の基盤として真言密教を、最も完成された理念として社会に組み込む、つまりインストールしようとしたのです。

    真言密教を寺院や僧侶の内側だけに閉じ込めず、国家儀礼、教育、土木、文化など、現実の社会の中で実践しました。

    空海は、儒教、道教、従来の仏教などを、人間の心が深まっていく過程の中に位置づけました。『十住心論』では、これらの思想を十の段階に体系化し、その最終段階に真言密教を置いています。

    空海にとって真言密教は、他の思想をすべて否定し、排除するためのものではありませんでした。それぞれの思想の意義を認めながら、それらをより大きな世界観の中に位置づける教えだったのではないでしょうか。

    その世界観を、文字ではなく、仏たちの配置によって目に見える形で示したものが、金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅からなる「両界曼荼羅」です。

    ただし、曼荼羅は『十住心論』の十段階を、そのまま図解したものではありません。大日如来を中心として、あらゆる存在が相互に関係しながら成り立っていることを、目に見える形で表したものです。

    空海は、真理を文章だけで説明しようとはしませんでした。曼荼羅、仏像、儀礼、真言、そして身体の動作などを通じて、真理を全身で理解させようとしたのです。

    重要なのは、空海が仏教を理念や修行の知識だけにとどめず、現実の世界に働かせようとしたことです。

    空海にとって密教は、現実を離れて別の世界へ向かうための教えではありませんでした。この現実世界そのものを仏の世界として捉え、人間もまた、この身体のままで仏の境地に至ることができると説く教えでした。

    それが「即身成仏」です。

    もちろん、空海が行った社会的な実践そのものを、即身成仏と呼ぶことはできません。しかし、仏の知恵と慈悲をこの現実世界に表そうとする空海の姿勢は、即身成仏の思想と深くつながっていたと考えられます。

    5.結び――空海は何を目指したのか

    ここまで見てきたように、空海の活動は、国家安寧、済世利人、思想の体系化という三つの方向に整理できます。しかし、この三つは互いに独立したものではありません。

    多様な思想を真言密教の立場から体系化し、その真言密教を国家と人々のために現実の社会で働かせる――これこそが、空海の目指したものだったのではないでしょうか。

    空海の著作には、現代の私たちには理解しにくい言葉や複雑な教義が数多く登場します。しかし、その事跡に目を向けると、根底にあった目的は意外に明快だったように思います。

    すなわち、仏の知恵と慈悲を、この現実世界の中に具体的な形として表すことです。

    そのために空海は祈り、教え、書き、造り、そして人々のために行動しました。

    空海の思想は、その表現と体系においては壮大で複雑です。しかし、目指したものは、仏の教えによって国家と人々を安らかにするという、きわめて一貫したものだったのではないでしょうか。

  • 「平和への誓い」に息づく空海の思想

    「平和への誓い」に息づく空海の思想

    被爆から81年を迎えた8月6日、広島市中区の平和記念公園で、平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和祈念式)が営まれました。

    まず、原爆によって亡くなられた方々に哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器の廃絶と世界恒久平和への誓いを、私自身も新たにしたいと思います。

    式典では、広島市立高須小学校6年の柿崎由宇さんと、広島市立高南小学校6年の河野和希さんが、こども代表として「平和への誓い」を読み上げました。その中に、次の言葉がありました。

    相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。
    平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。
    一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなります。

    この言葉を聞いたとき、私は、日本人の心の奥底には、今も空海の思想が息づいているのだと思いました。

    相手の気持ちを想像し、自分とは異なる意見を直ちに排斥するのではなく、まず認め、受け止める。そのうえで、それぞれの立場から共通の目的へ向かって行動する。この姿勢は、異なる思想や教えをそれぞれの段階に位置づけながら、すべての人を悟りへと導こうとした空海の密教に通じるものがあります。

    核兵器をめぐっては、それぞれの立場によって、さまざまな意見があります。核兵器を人類社会からなくしていくことは、多くの人々に共通する願いでしょう。しかし、そこへ至る道筋については、自衛、核抑止、安全保障、国際政治などの観点から、それぞれに異なる考えがあります。

    しかし、意見が違うからといって相手を否定し、対話を断ってしまえば、平和への道はかえって遠のきます。必要なのは、相違を消し去ることではありません。互いの立場や不安を理解し、その違いを抱えながらも、人類の平和という究極の目的へ、一歩ずつ近づいていくことではないでしょうか。

    異なる思想や立場を排斥せず、より大きな目的の中に包み込みながら、共に進む道を探す――そこに、密教的な発想を現代世界に生かす可能性があると私は考えます。

    そして、平和を実現するのは、一部の政治指導者だけではありません。世界に生きる一人ひとりが、相手の立場を想像し、違いを認め、自分にできる小さな行動を積み重ねていくことが必要です。

    この点も、空海の生き方に通じています。空海は、朝廷や貴族に密教を伝えて国家の安寧を祈るだけでなく、綜芸種智院を開き、満濃池の修築に携わるなど、教育や社会事業を通じて人々の生活にも深く関わりました。空海が目指した鎮護国家と済世利人は、指導者の祈りや政策だけによって実現するものではなく、一人ひとりの心と暮らしが安らかになることによって、初めて成し遂げられるものだったのではないでしょうか。

    広島の小学生たちが語った「一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなります」という言葉は、まさにその考えを現代の言葉で表したもののように、私には思えます。

    そのことを、広島の小学生たちが自分たちの言葉で世界に向けて語ってくれました。私はそこに、日本の精神文化が世代を超えて受け継がれている姿を見るとともに、日本人として大きな誇りと、未来への希望を感じるのです。

  • 空海から世界へ――現代に甦る「鎮護国家と済世利人」

    空海から世界へ――現代に甦る「鎮護国家と済世利人」

    【「鎮護国家と済世利人」が意味するもの】

    空海が目指した「鎮護国家と済世利人」という理念は、現代の世界にも通用するのではないでしょうか。

    世界情勢が不安定化する現在、私たち日本人が世界に示すべき一つの道が、この「鎮護国家と済世利人」ではないかと筆者は考えます。これを現代の言葉に置き換えるなら、「世界の安寧と人類の幸福」、あるいは「世界平和と人間の尊厳」と表現できるでしょう。

    空海は、密教によって国家の安泰を祈るだけでなく、人々の心から不安を取り除き、一人ひとりがよりよく生きるための道を示そうとしました。空海にとって、国家の安寧と民衆の救済は、別々のものではなかったのではないでしょうか。

    人々の心が安定し、互いを尊重しながら正しく生きることが、社会と国家の安定につながる。空海は、そのように考えていたのではないかと思うのです。

    【日本の精神文化に残されたもの】

    もちろん、日本の歴史が千年以上にわたって、常に平和であったわけではありません。国内では内乱や戦争が繰り返され、近代には日本も対外戦争の当事国となりました。その歴史を忘れ、空海の思想によって日本が平和であり続けたと単純に結論づけることはできません。

    それでも、仏教や神道をはじめとする日本の精神文化には、異なる思想や信仰を完全に排除するのではなく、それらを受け入れ、共存させようとする傾向が育まれてきました。神と仏をともに敬い、外来の文化を受け入れながら、それを日本独自の形へと組み直してきた歴史にも、その特徴が表れています。

    このような精神文化の形成に、空海が伝えた密教思想も一定の役割を果たしたのではないかと筆者は考えます。

    【日本人の心に働く精神的な「プログラム」】

    前回のコラムでは、空海が日本人の心に残したものを、精神的な「プログラム」と表現しました。

    それは、すべての人間のうちに仏となる可能性を認め、現実世界を捨てることなく、この身、この場所、この社会のなかで悟りを実現しようとする思想です。

    空海が説いた即身成仏は、悟りを遠い未来や死後の世界だけに求めるのではなく、今を生きている自分自身のなかに、その可能性を見いだそうとするものでした。

    この思想は、千年以上にわたって日本人の心の深層に働き続ける、一つの思想的・精神的な「プログラム」になったのではないでしょうか。そして、このプログラムを現代にふさわしい形に組み直し、世界へ提示することが、今日の日本人に求められている役割の一つではないかと筆者は考えます。

    もちろん、これは空海の時代の儀礼や教義を、そのまま現代社会に復活させるということではありません。

    自分と他者を完全に切り離して考えないこと。異なる存在や価値観を認めること。自らの欲望や怒りを制御すること。そして、自分に与えられた能力を、自分だけの利益ではなく、社会や他者のためにも生かすこと。

    空海の思想に含まれるこうした精神的な仕組みを、現代の人々が共有できる普遍的な理念へと組み直すことです。

    【国家の安寧から世界の安寧へ】

    世界が一体化した今日、一つの国だけが繁栄し、他の国々が苦しむ状態を長く続けることはできません。国家の安全と世界の平和、経済の発展と人間の幸福を、別々の問題として扱うことも難しくなっています。

    だからこそ、「鎮護国家と済世利人」を「世界の安寧と人類の幸福」へと拡張して捉えるとき、空海の思想は改めて大きな意味を持つのです。

    人類は長い歴史のなかで、戦争と対立を繰り返してきました。現在のウクライナや中東をめぐる混乱も、その延長線上にあります。武力によって相手を屈服させても、新たな憎しみが生まれ、次の争いの原因となる。その繰り返しを、人類は何度経験してきたことでしょう。

    【宮沢賢治の言葉との響き合い】

    宮沢賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と考えました。

    この言葉は、一人だけの幸福も、一国だけの繁栄も、他者の苦しみの上には長く成り立たないことを示しています。それは、「世界の安寧と人類の幸福」を一体のものとして捉える考え方であり、「鎮護国家と済世利人」を現代的に展開した思想とも重なります。

    しかし、異なる歴史、宗教、文化、価値観を持つ国々に対して、ただ「争いをやめよう」と叫ぶだけでは、問題を解決することはできません。

    必要なのは、相手を力によって変えることではなく、互いの生命と尊厳を認め合う新しい精神的基盤を、世界の人々とともにつくることです。

    そのために、日本で育まれてきた共生、寛容、自己抑制、利他の精神を、現代的かつ普遍的な理念へと進化させ、世界に提示することが求められているのではないでしょうか。

    【世界との対話によって新しい理念をつくる】

    それは、日本の思想を一方的に世界へ押し広げることではありません。空海の思想を一つの出発点としながら、世界のさまざまな宗教や思想と対話し、それぞれの知恵を持ち寄ることです。その対話を通じて、人類が共有できる「世界の安寧と人類の幸福」への道を、ともにつくっていくのです。

    そして、この理念を担うのは、政治家や宗教家などの指導的な立場にある人々だけではありません。社会のあらゆる立場の人々がこの理念を共有し、それぞれの日常のなかで実践していくことが大切です。

    【一人ひとりの実践から世界の平和へ】

    他人の立場を想像し、尊重すること。異なる意見をすぐに排除しないこと。怒りや欲望に支配されないよう、自らの心を見つめること。そして、自分に与えられた能力を、周囲の人々や社会のために生かすこと。

    こうした一人ひとりの小さな実践こそが、「世界の安寧と人類の幸福」へとつながっていきます。そして、その実践の積み重ねは、自らの心を整え、他者とともによりよく生きようとする、空海の教えにも通じる歩みではないでしょうか。

    世界の平和は、遠い場所で誰かが実現してくれるものではありません。多くの人々が、自らの心を整え、他者の幸福を願って行動する。その日々の積み重ねによって、世界の平和は少しずつ形づくられていくものなのです。

    空海の「鎮護国家と済世利人」を、現代の「世界の安寧と人類の幸福」へと甦らせること。

    それは世界のためだけではありません。グローバル化した世界に生きる日本人自身が、平和に、そして幸福に生きていくための道でもあると、筆者は考えるのです。

  • 空海が日本に遺した精神的プログラム――『鎮護国家と済世利人』

    空海が日本に遺した精神的プログラム――『鎮護国家と済世利人』

    空海が目指した「鎮護国家と済世利人」

    空海は、遣唐使の一員として唐に渡り、長安の青龍寺で恵果阿闍梨から正統な密教を授けられました。では空海は、その密教を日本でどのように生かそうとしたのでしょうか。

    私は、空海が最終的に目指したものは、「鎮護国家と済世利人」だったのではないかと考えています。すなわち、国の安寧を祈るだけでなく、苦しむ人々を救い、人々がよりよく生きられる社会をつくることです。

    激動する時代に生まれた空海

    空海の青年時代は、日本の政治と社会が大きく揺れ動いた時期でした。

    都は平城京から長岡京へ、さらに平安京へと移されました。その過程では、政争や暗殺事件が起こり、非業の死を遂げた早良親王の怨霊に対する畏れも社会に広がりました。桓武天皇と朝廷は、政治的な混乱だけでなく、疫病や災害までも怨霊や祟りと結びつけて受け止めていました。

    人々の生活は疲弊し、国家と社会を精神的に支える、新たな思想と祈りの体系が求められていたのです。

    官僚への道から仏道へ

    空海は十八歳で大学に入り、儒教を中心とする学問を修めました。当初は、官僚として朝廷に仕え、国家と人々のために働く道を考えていたのかもしれません。

    しかし、空海は次第に、大学で学ぶ儒教的な知識や官僚制度だけでは、人間の苦しみを根本から救うことはできないのではないか、と疑問を抱くようになったのではないでしょうか。

    もちろん、儒教にも仁政や徳治など、人々の安寧を願う思想があります。しかし儒教は、主として現実社会の秩序を整える教えです。それに対して仏教は、人間はなぜ苦しむのか、その苦しみからどのように解放されるのかという、より根源的な問題を扱います。

    若き空海は、儒教・道教・仏教を比較し、仏教こそが人間を根本から救う教えであると考えるようになりました。その心境は、二十四歳ごろに著した『三教指帰』にはっきりと表れています。

    山林修行と室戸岬での体験

    大学を離れた空海は、山林修行の道に入りました。四国の山岳や海岸を巡り、「虚空蔵求聞持法」という厳しい修行を重ねたとされています。

    『三教指帰』には、土佐の室戸岬付近で修行していたとき、「明星来影す」と呼ばれる神秘的な体験をしたことが記されています。それを完全な悟りと呼べるかどうかは別として、この体験が空海の宗教的人生を決定づける大きな転機になったことは間違いないでしょう。

    しかし、山林での修行だけでは、空海が求めていた仏教の全体像を明らかにすることはできませんでした。やがて空海は『大日経』などの密教経典に出会います。そこには、真言、印契、曼荼羅、瞑想などを通じて、悟りをこの身において実現するための具体的な方法が説かれていました。

    空海は、その奥義を正しく学ぶには、密教の本場である唐へ渡る必要があると考えたのでしょう。

    密教を日本社会に生かす

    唐に渡った空海は、長安の青龍寺で恵果阿闍梨と出会い、密教の正統な継承者として教えを授けられました。

    帰国後の空海は、密教を自分一人の悟りのためだけに用いたのではありませんでした。高野山を修行の道場として開き、東寺を密教の根本道場とし、国家安泰を祈る修法を行いました。また、後継者を育成し、密教が将来にわたって正しく伝承される仕組みを整えました。

    さらに、綜芸種智院を開いて教育の門戸を広げ、満濃池の修築にも関わったと伝えられています。ここには、祈りと思想だけでなく、教育や社会事業を通じて人々を救おうとする空海の姿があります。

    空海にとって「鎮護国家」と「済世利人」は、別々のものではなかったのではないでしょうか。国家の真の安寧は、権力によって秩序を維持するだけでは実現しません。一人ひとりが自らの心を整え、他者を尊重し、慈悲をもって生きることによって、初めて社会全体の安寧が生まれる。そのように空海は考えていたのではないかと思います。

    日本人の心に残された精神的なプログラム

    今日の日本人が持つ、穏やかさ、平和を尊ぶ心、自然への畏敬、他者への配慮といった倫理観は、空海一人によって生まれたものではありません。神道、儒教、さまざまな仏教思想、地域共同体の習慣など、多くの要素が重なって形成されたものです。

    しかし空海が、日本人の精神文化の形成に大きな影響を与えたことも確かでしょう。

    すべての人間のうちに仏となる可能性を認め、この現実世界を捨てるのではなく、この身、この場所、この社会のなかで悟りを実現しようとする空海の思想。それは、千年以上にわたって日本人の心の深層に働き続ける、一つの思想的・精神的な「プログラム」になったのではないでしょうか。

    空海が唐から持ち帰ったものは、経典や曼荼羅、法具だけではありません。それは、人間の内面的な成長と社会の安寧を一つに結びつける、壮大な思想体系だったのです。

  • 四国八十八箇所霊場の巡礼記(2)

    四国八十八箇所霊場の巡礼記(2)

    第二回目の四国八十八箇所霊場巡礼記です。

    今回は第十二番札所から第二十三番札所までを巡りました。2026年6月23日から24日にかけての巡礼です。これで徳島県の札所はすべて参拝することができました。次回からはいよいよ高知県に入ります。

    今回訪れた札所には山深い場所に建つ寺院が多くありました。空海が若き日に修行したと伝えられる寺もあり、古代日本の山岳信仰や修験道の雰囲気を今なお感じさせる場所ばかりでした。

    空海もこうした厳しい自然の中で修行を重ね、悟りを求めました。しかし、それだけでは満足せず、さらに深い仏教の真理を求めて唐へ渡ります。そして真言密教を学び、日本へ伝えました。その探究心と行動力は、改めて考えてみても並外れたものだったと思います。

    山寺を訪れると、圧倒的な自然の力を感じます。空海も同じ景色を見ながら修行していたのでしょう。しかし彼は、ただ自然と一体になるだけではなく、人間が自然の一部としてどのように生きるべきか、その答えを求め続けたのかもしれません。その思いが、海を渡り新たな教えを求める原動力になったようにも感じられます。

    それでは、今回巡った札所をご紹介したいと思います。

    1.第十二番札所 焼山寺(しょうさんじ)

    焼山寺は深い山々に囲まれた場所にあり、本尊は虚空蔵菩薩ですが、蔵王権現も祀られており、山岳信仰の色濃い寺院です。

    境内で特に印象に残ったのは石でした。徳島県特有の阿波青石が随所に使われており、その青緑色が周囲の自然と見事に調和しています。

    訪れた日は霧雨が降っていました。六月の湿った空気の中、木々の生命力がいっそう強く感じられます。そして阿波青石もまた、長い年月をこの山中で過ごしてきたかのような存在感を放ち、まるで石そのものにも息吹が宿っているように感じられました。

    2.第十三番札所 大日寺(だいにちじ)

    大日寺は城下町の里にあるお寺で、道を隔てた場所には阿波一宮があります。本尊の十一面観世音菩薩が祀られており、山深い焼山寺とは対照的に、人々の暮らしの中に溶け込んだ親しみやすい雰囲気のお寺でした。

    3.第十四番札所 常楽寺(常楽寺)

    常楽寺も集落の近くにあるお寺ですが、境内全体が岩盤の上に築かれているのが特徴です。足元の地面も岩で覆われており、まるで岩山の上に建つお寺のような独特の景観を見せています。

    本尊は弥勒菩薩です。遠い未来にこの世へ現れ人々を救うとされる仏様ですが、この岩の大地に立っていると、悠久の時の流れを見守っているような不思議な雰囲気を感じました。

    4.第十五番札所 国分寺(こくぶんじ)

    国分寺は常楽寺からすぐの場所にあります。名勝として知られる庭園があります。人工的な雰囲気で山岳信仰とは対照的な雰囲気です。

    5.第十六番札所 観音寺(かんおんじ)

    観音寺は住宅街の中にあるこぢんまりとしたお寺です。境内はコンパクトにまとまっており、大きな寺院とは異なる親しみやすい雰囲気があります。

    6.第十七番札所 井戸寺(いどじ井戸寺は郊外にある立派なお寺です。山門や伽藍も大きく、堂々とした風格を感じます。

    この寺には、空海が掘ったと伝えられる井戸があります。真偽は定かではありませんが、空海は満濃池の改修に代表されるように土木技術にも優れていた人物です。もし本当にこの地で井戸を掘り、人々の生活を支える水源を確保したのだとすれば、その功績は計り知れません。

    単なる伝説としてではなく、地域の人々の暮らしに寄り添った空海の姿を想像すると、深い感動を覚える札所でした。

    7.第十八番札所 恩山寺(おんざんじ)

    恩山寺は山の中腹、深い森に囲まれた静かなお寺です。雨に濡れたアジサイが美しく咲き、境内にはしっとりとした風情が漂っていました。古いお堂には数多くの仏像が並び、長い歴史を感じさせる趣のある札所でした。

    8.第十九番札所 立江寺(たつえじ)

    立江寺は市街地にあるお寺です。庭はよく手入れされ、建物もきれいに整備されていました。修復された仁王像が、厳しい表情で山門を守る姿が印象的でした。

    9.第二十番札所 鶴林寺(かくりんじ)

    鶴林寺は山深い場所にありました。建物は古く、苔むした風情があります。山の中に三重塔がひっそりと建っており、静かで落ち着いた雰囲気のお寺でした。

    10.第二十一番札所 太龍寺(たいりゅうじ)

    太龍寺は、ロープウェイで向かうほど山深い場所にあります。「西の高野山」といわれるだけあって、山上には大きな伽藍が建ち、その荘厳な姿に圧倒されました。眼下には那賀川が流れ、まるで一匹の龍のように大地を潤す一方、ときには災害をもたらす存在でもあります。その龍を鎮め、人々の暮らしを見守るように太龍寺が建てられているのではないかと感じ、深く印象に残りました。

    11.第二十二番札所 平等寺(びょうどうじ)

    平等寺は里にあるお寺です。古い建物が残り、歴史を感じさせる風情ある札所でした。派手さはありませんが、どこか心が落ち着く、そんなお寺でした。

    12.第二十三番札所 薬王寺(やくおうじ)

    薬王寺は町中のお寺で、駐車場には日帰り温泉施設が併設されており、市民とともにあるお寺でした。建物もよく整備されています。

    今回は第二十三番札所までの巡礼となりました。

    二十三のお寺を巡礼してみると、本当に一つとして同じ寺はありません。それぞれに歴史があり、風景があり、信仰があり、個性があります。

    私は、日本に仏教が伝わった理由の一つは、新しい「知」を求めたことにあったのではないかと考えています。国家が発展していくためには、経済や行政だけでなく、教育や科学、思想といった知性が欠かせません。古代に伝来した仏教は、単なる宗教ではなく、文字、医学、土木、教育など幅広い知識を含んだ総合的な文化でした。寺院は、その土地に知をもたらし、人々を育てる拠点として大きな役割を果たしていたのではないでしょうか。

    時代は移り、多くの寺院は葬儀や法要を中心とした役割を担うようになりました。しかし、その役割も社会の変化とともに大きく揺らいでいます。そのような中で、四国八十八ヶ所は、巡礼という文化を通じて歴史や信仰を伝え、観光として訪れる人にも、仏教の教えを深く求める人にも、新たな価値を提供し続けています。

    そして何より不思議に感じるのは、**「空海がこの地を訪れた」**という事実が、千二百年の時を超えて今なお多くの人々を引き寄せ、その寺に新たな意味を与え続けていることです。それこそが「縁」の力であり、仏教が大切にしてきた世界なのかもしれません。

    私自身、この巡礼を通して寺院を巡っただけではなく、日本の歴史や文化、そして人と人との縁の尊さについて改めて考える機会をいただきました。

  • スッタニパーダと空海に見る「人の道」

    スッタニパーダと空海に見る「人の道」

    スッタニパータは、仏教最古層の経典の一つであると言われています。その内容は、後世に体系化された仏教経典とは大きく異なり、パーリ語による詩の形式で構成されています。そこには弟子やバラモンたちが直接仏陀に問いかける場面が数多く描かれており、仏陀を超越的存在としてではなく、一人の人間として身近に感じることができる経典なのです。

    また、スッタニパータの特徴は、その教えが非常に平易であることです。当時の人々が日常の言葉として理解できる形で語られており、難解な宗教理論を説こうとしているようには見えません。むしろ仏陀は、「人はどのように生きるべきか」という問いを、誰にでも理解できる形で説いていたように思われます。

    その内容は、現代人にも通じる普遍的な倫理観に満ちています。確かに時代背景の違いから、表現の一部には現代では過激、あるいは粗野に感じられる箇所も存在します。しかし、その根底に流れているのは、人間が執着や欲望に振り回されず、正しく生きるための道であるように思われます。

    私は、スッタニパータを読むと、仏教の普遍性の原点がここにあるように感じます。ほかの宗教では、どうしても神を信じることを前提とする側面があります。しかし、スッタニパータでは神そのものを中心に論じてはいません。そこでは、人が執着や欲望に縛られることで苦しみを生み出していることを説いています。そして、その苦しみから離れ、正しく生きる道を、教義として押し付けるのではなく、人々が自然に理解できるように語りかけているのです。

    つまり、スッタニパータとは、人が人生を歩むための「道」を示した経典であるように思えるのです。

    この「道」という考え方は、後の東洋思想にも深く影響しているように思われます。学問の道、武士道、茶道など、日本文化には「道」という思想が広く存在しています。その根底には、人間の内面を磨きながら生きるという東洋的精神が流れているように感じられます。

    日本に仏教が伝来した際には、中国を経由した大乗仏教が中心であったため、スッタニパータのような初期仏教経典は長く知られていませんでした。しかし、その倫理観そのものは、日本仏教の中にも確かに受け継がれているように思われます。特に私は、空海の思想との共通性を感じざるを得ません。

    空海は若い頃、儒教を学びましたが、それだけでは人生や宇宙の真理には到達できないと考え、仏教へと向かいました。そして、当時の日本仏教にも限界を感じ、中国へ渡って密教を学んだのです。

    空海が中国から帰国後に広めた真言密教は、単なる知識や学問ではなく、人が自己を見つめ、宇宙の真理と一体化するための実践の道であったように思われます。その意味で、スッタニパータが説く「人として正しく生きる道」と、深い部分でつながっているように私には感じられるのです。

    もちろん、スッタニパータと真言密教は、歴史的にも教義的にも同じものではありません。しかし両者には共通して、「真理は一部の特権的な人だけのものではなく、本来すべての人に向けられている」という思想があるように感じられます。

    また、後の大乗仏教では、「空」の思想が体系化されていきました。龍樹などによって深められたこの思想は、すべてのものは固定的な実体を持たず、互いに関係し合いながら存在しているという理解につながっています。

    そして空海は、十住心論の中で、人にはそれぞれ異なる段階や境地があることを説いています。人は煩悩を持つ存在でありながら、それでもなお悟りへ向かう可能性を持っているという考え方です。

    このように考えると、人が執着から解放され、正しい生き方へ近づいていくという思想は、初期仏教から大乗仏教、さらに真言密教へと、形を変えながら受け継がれていったようにも思われます。

    私は、スッタニパータを読むたびに、仏陀が本当に伝えたかったものは、難解な宗教理論ではなく、「人としてどう生きるべきか」という極めて普遍的な問いだったのではないかと感じます。そしてそれは、空海が真言密教を通して伝えようとした思想とも、どこか深い部分で響き合っているように思えるのです。

  • 悟りのPDCAサイクル ― 日常に生きる仏道の実践

    悟りのPDCAサイクル ― 日常に生きる仏道の実践

    釈尊も空海も、自身の悟りを得た後に、その真理を世に広め、多くの人々の幸福を願って活動を続けました。これらの営みは歴史に大きな影響を与え、高く評価されています。
    つまり、仏教の悟りとはその瞬間で終わるものではなく、むしろそこからが始まりではないでしょうか。

    悟りに至った後も、一瞬一瞬を丁寧に生き続けること――それこそが人の道であると私は考えます。

    最も大切なのは、まず「悟りたい」と願うことです。
    悟ろうと志したその瞬間、すなわち発心の時点で、すでに悟りは始まっているのだと思うのです。

    そして、その発心を継続していくことが重要です。
    継続のためには、常に精神が充実している必要があります。その基盤となるのが、あらゆるものへの感謝の心です。

    日々の生活の中で感謝を積み重ねることで精神は満たされ、自らの悟りが正しいものであるかを確かめ続けることができます。
    私のような凡人にとっては、これは終わりのない修行でもあります。

    これはいわば「悟りのPDCAサイクル**」とも言えるものであり、人はその循環の中で、より深い幸福へと至っていくのではないでしょうか。

    人はそれぞれの縁に従い、さまざまな道を歩みます。
    しかし、その歩みの本質は、このサイクルを回し続けることにあるのではないでしょうか。

    煩悩を抱えて生きる私たちは、日々の中で失敗もし、他人に迷惑をかけることもあります。それらを完全に避けることはできません。
    だからこそ、日常の中でこの循環を回し続け、少しずつ悟りの深みに近づいていく――それが人の道なのだと思います。

    そこに明確なゴールはありません。
    ただ一歩一歩前に進み、できることなら後に続く人に道を示しながら、先の見えない道を歩み続ける。それが私たちの生き方なのでしょう。

    それぞれが自らの天命に従い、「悟りのPDCAサイクル」を実践していくこと――
    それこそが真の密教の教えであり、いわゆる「即身成仏」の思想に通じるものではないかと、私は考えています。

    **PDCAサイクルとは、計画(Plan)・実行(Do)・評価(Check)・改善(Act)の4つの工程を繰り返し、物事を継続的に向上させていく考え方です。まず目標や方針を定めて実行し、その結果を振り返って検証し、課題を改善します。この循環を何度も回すことで、精度や成果が徐々に高まり、より良い状態へと導かれていきます。

  • 四国八十八箇所霊場の巡礼記(1)

    四国八十八箇所霊場の巡礼記(1)

    いよいよ今月から四国八十八箇所霊場の巡礼を開始しました。
    今回は第一番札所から第十一番札所までです。2026年4月14日から15日かけて巡ってきました。

    徒歩で巡礼されている方々には大変恐縮ですが、当方は車での巡礼となります。それでも四国を巡りながら八十八の霊場を訪れる時間は、心が洗われるような感覚があります。

    現在では巡礼も一種のレジャーとして捉えられる面がありますが、それはそれで楽しさがあり、精神的な充実も得られるものだと感じています。悟りを求める厳しい修行というよりも、弘法大師・空海の説いた即身成仏の教えに触れながら、楽しく巡り、1200年以上前に空海が歩んだであろう地を訪ねていきたいと思います。

    また、多くの巡礼者の中には外国人の姿も見られます。信仰や精神性を求める心は、国や文化を超えて共通するものがあるのだと感じさせられます。

    各寺では般若心経を唱え、心を落ち着かせるよう心がけています。

    1.第一番札所 霊山寺(りょうぜんじ)

    やはり最初の札所ということもあり、駐車場も広く多くの参拝者で賑わっています。初めての方から慣れた様子の方まで様々です。巡礼の始まりとして、自然と期待感が高まります。
    境内入口には池があり、美しい錦鯉が優雅に泳いでいました。

    2.第二番札所 極楽寺(ごくらくじ)

    第一番札所と比べると、落ち着いた雰囲気があります。山門をくぐると整えられた日本庭園が広がり、境内には大きなクスノキが印象的でした。仁王像も迫力があります。

    3.第三番札所 金泉寺(こんせんじ)

    山門の仁王像が個性的で、倶利伽羅龍王像が特に印象に残りました。

    4.第四番札所 大日寺(だいにちじ)

    小さな山門をくぐると整った伽藍が広がり、西国三十三所の観音像が安置されていました。

    5.第五番札所 地蔵寺(じぞうじ)

    山門は小さいながらも特徴的な仁王像があり、境内中央の大きなイチョウが印象的です。弘法大師の像もあり、落ち着いた雰囲気です。

    6.第六番札所 安楽寺(あんらくじ)

    立派な山門と独立した仁王堂があり、境内も広く堂々とした印象を受けました。

    7.第七番札所 十楽寺(じゅうらくじ)

    山門をくぐり階段を上ると本堂があり、愛染明王が祀られています。隣には宿泊可能な施設も整備されています。

    8.第八番札所 熊谷寺(くまだにじ)

    階段を上り山門を抜けるとさらに奥へと続き、本堂と大師堂が静かに佇んでいます。かつては熊野神社があった場所とも伝えられています。

    9.第九番札所 法輪寺(ほうりんじ)

    このあたりで雨が強くなりました。古風な山門と、本堂・大師堂が静かに佇んでいます。

    10.第十番札所 切幡寺(きりはたじ)

    山麓から本堂まで333段の石段が続き、登るのはなかなか大変です。その分、到達した時の達成感があります。

    11.第十一番札所 藤井寺(ふじいでら)

    山門の仁王像が印象的で、大師堂には厳かな雰囲気の中に弘法大師像が安置されていました。

    今回は第十一番札所までの巡礼となりました。

    今回訪れた寺院はいずれもよく整備されており、多くの巡礼者を受け入れる体制が整っていると感じました。それは単なる物質的な豊かさではなく、巡礼文化を支え続けてきた歴史の積み重ねによるものなのでしょう。

    1200年以上前に弘法大師・空海が切り開いたこの巡礼の道が、今なお多くの人々に受け継がれていることに、深い縁と歴史の重みを感じます。

    多くの巡礼者がこの地を訪れ、その歩みが幾度となく重ねられてきた歳月は、個人や時代を超え、「すべては空である」という理を静かに示しているように思われます。

    弘法大師・空海が開いたこの巡礼の道を、今なお世界中の人々が辿り続けている——その営みそのものが、空海の説いた即身成仏の教えを、現代においても体感させてくれるものなのかもしれません。