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  • 煩悩・無常・縁から見る人間の判断

    煩悩・無常・縁から見る人間の判断

    煩悩をめぐる多様な視点

    筆者はいまだ煩悩について十分に洞察し尽くしているとは言えませんが、あえていくつかの視点を行き来しながら考察してみたいと思います。
    煩悩を「空」の視点から見るのか、「諸行無常」の視点から見るのか、あるいは「縁」の視点から見るのかによって、善悪の判断そのものが揺らいでくるように感じられるからです。


    煩悩は生きるエネルギーである

    人間はこの世に生を受けたとき、すでに強烈な煩悩を携えています。成長とともにその煩悩はさらに強まり、生きるためのエネルギーともなっていきます。この煩悩がすべてなくなった時点で死を迎えます。つまり成仏するということです。また、この煩悩の働きこそが、万物が移ろい変化し続ける「諸行無常」を生み出しているとも考えられるでしょう。


    煩悩を制御するための法と人間の智慧

    しかし、この煩悩を何の制御もなく放置すれば、やがて世の中は混沌としてしまいます。そこで人間は、経験と反省を重ねながら「法」を定めるという智慧を生み出してきたのではないでしょうか。人間は法に従って煩悩を制御することが、世の中すべての幸福につながると考えたのではないでしょうか。


    法は縁によって生まれる判断基準

    ここでは、日本の法律に限定して考えてみます。法律は立法議会において議論され、最終的には多数決によって制定されます。しかし、その出発点は、ある人が社会の中で「これは必要だ」と感じた瞬間にあると言えるでしょう。

    人は日々、煩悩を生きるエネルギーとしてさまざまな活動を行い、多くの人や物と縁を結びながら生きています。その縁が複雑に絡み合い、利害の調整が避けられなくなったとき、法律という形が生まれるのではないでしょうか。そう考えると、法律の成立そのものが「縁」のなせる業であるように思われます。

    法律は社会における判断基準ですが、その基準は決して普遍的なものではなく、最終的には主体となる人や集団の利益に基づいて定義されます。つまり法とは、特定の人や物との関係性――すなわち縁――に依存して成立する判断基準なのです。


    刑法に見る縁の積み重ね

    具体例として刑法を見てみましょう。刑法において、人のお金を理由もなく盗むことが禁じられているのは、自らの煩悩に従って他人の財を奪う行為が、過去において大きな社会的混乱や問題を引き起こしてきたからです。その経験の積み重ねから、「禁止したほうが社会全体にとって利益がある」と判断されてきました。

    これは、過去の人間社会における無数の縁の積み重ねから生まれた智慧の結晶であり、その結果として法律が形づくられてきたと言えるでしょう。


    悪縁と裁き、そして気づき

    一方で、お金が欲しいというごく普通の煩悩を抱いた人が悪縁に結びつき、他人の金銭を欺き取ってしまったとします。その人は警察に捕まり、法によって裁かれ、有罪とされるでしょう。そして反省の過程において、自らが悪縁につながっていたことを自覚するのです。

    それは、良縁という視点から見れば、やはり問題を含んだ関係性であったからにほかなりません。


    縁を洞察することの意味

    このように煩悩は縁によって流転し、また縁によって生まれた法によって判断されているように思われます。「縁」という考え方は仏教独特のものであり、英語圏の人々にこの概念を正確に伝えることは決して容易ではありません。

    しかし、この縁を深く洞察し、自らがどのような関係性の中に身を置いているのかを見極めることこそが、人がより幸福に生きていくために欠かせないことではないでしょうか。

  • 諸行無常の中の縁――煩悩と選挙をめぐって

    諸行無常の中の縁――煩悩と選挙をめぐって

    煩悩と空――善悪が生まれる構造

    煩悩を語り始めると尽きることがありません。前回の随筆で、私は「良い煩悩」という表現を用いました。しかし仏教の世界観に立てば、すべては空であり、実のところ良いも悪いも存在しません。
    ただし、諸行無常の流れの中では、時間的な差異によって「良い時」「悪い時」が生じ、その結果として煩悩にも善悪があるように見えてくるのです。

    短期的には良いと感じられることが、長期的には悪となる場合もあり、その逆もまた然りです。絶対的な基準が存在しない以上、私たちはその時その時、諸行無常の流れの中で判断するしかありません。


    判断が新たな煩悩を生むという逆説

    しかし重要なのは、その判断行為そのものが新たな煩悩を生み、縁の結びつきによって、さらに大きな諸行無常を引き起こしていく点ではないでしょうか。
    判断しなければ社会は成り立ちませんが、判断することで煩悩は増幅し、流転していく。この逆説の中で、私たちは生きています。


    核反応としての縁と社会

    この構造は核反応に似ています。一部の小さな反応が連鎖し、やがて全体として大きな反応へと拡大していく。行き着く先は分かりませんが、その根源はすべて同じ――空なのです。
    煩悩を実践するという「反応」が生じ、縁が結ばれることで、社会は成り立っているようにも見えます。


    仏教的視点から見る日本の選挙

    この仏教的視点から現在の日本の選挙を見ると、多くの示唆が得られます。
    たとえば、立憲と公明の関係は良縁なのでしょうか。中道という抽象的概念によって良縁のように装われていますが、実態は選挙に勝つための野合という側面も否定できません。

    両者にとっては「選ばざるを得ない縁」かもしれませんが、日本政治全体にとって見れば、時代の流れに抗う勢力が一つにまとまり、やがて諸行無常の中に埋没していくことで、結果的に変化を促進する良縁とも考えられます。


    自民党の複雑な縁と時代の加速

    自民党はさらに複雑です。党内には良縁と悪縁が混在しているように見え、中途半端な状態にあります。しかし、高市首相が、この選挙で勝って権力基盤を強化するならば、政治の変化が加速させ、日本は否応なく変化していくのではないでしょうか。


    リーダーとは「縁を選ぶ者」である

    仏教的には、すべての社会もまた諸行無常の流れの中にあり、絶対的な良し悪しは存在しません。しかし、人間社会、あるいは日本というコミュニティに視点を限定した瞬間、縁の良し悪しは否応なく立ち現れます。そしてリーダーは、その縁を選択せざるを得ません。

    リーダーが縁の選択の決断をしなければ、コミュニティは収拾がつかなくなり、最悪の場合、分裂へと向かいます。一方で、誤った縁、すなわち悪縁を選んだ場合にも、ある一定期間の結果は決して良いものにはなりません。


    選挙とは、縁の選択である

    もし今回の選挙が、リーダーの選択する「縁」を問う選挙であるとするならば、多くの人々は、高市首相が選び取ろうとする縁を支持しているのかもしれません。

  • 煩悩についての一考察

    煩悩についての一考察

    煩悩とは何か ― 苦と生のエネルギー

    煩悩(ぼんのう)とは、心を乱し、苦しみや迷いを生み出す人間の欲や感情、そして執着のことを指します。繰り返し述べますが、人間には必ず煩悩があります。煩悩は苦の原因であると同時に、生きるエネルギーそのものでもあります。もし煩悩が完全になくなってしまえば、それは「空」になってしまうとも言えるでしょう。

    人生とは、この煩悩との格闘の連続であるように感じます。煩悩が達成されたときには喜びが生まれ、達成できなかったときには挫折を味わい、そして再び立ち上がる。煩悩を糧として、人の人生は織りなされているのではないでしょうか。


    個人と社会における煩悩

    私は、個人が煩悩を持つのと同じように、社会集団もまた集団としての煩悩を持つと考えています。問題となるのは、これらの煩悩が第三者に影響を及ぼすことが少なくないという点です。場合によっては、第三者に悪影響を与えてしまうこともあります。

    このような煩悩は、たとえ達成されたとしても、個人においても社会においても、決して幸福には結びつきません。煩悩とは、本来、達成されたときに自分も幸福になり、同時に周囲も幸福になるものであるべきでしょう。


    良い煩悩という視点

    達成されたときに自分も幸福になり、周囲も幸福になる煩悩こそが、「良い煩悩」と言えるのではないでしょうか。煩悩を単に否定するのではなく、その質を問い直すことが重要だと考えます。

    個と集団は本質的に同じ存在です。これは「空」の理論から見ても必然であり、個人の煩悩の達成は社会全体の煩悩の達成につながります。その結果として、多くの人が幸福になる可能性が生まれます。

    例えば、「おいしいものを食べたい」という煩悩は、その欲求が満たされることで喜びが生まれるだけでなく、おいしいものが多くの人に提供される可能性を広げ、それを生産する人の幸福にもつながります。このような煩悩は良い煩悩と言えるでしょう。

    一方で、「おいしいものを自分だけが食べたい」という煩悩になると、妬みや不満が生まれ、不幸な側面も発生します。この場合、その煩悩は必ずしも良い煩悩とは言えません。


    即身成仏と煩悩の在り方

    空海は「即身成仏」を説きました。煩悩を持ったままであっても成仏できる、という教えです。しかし、その煩悩はやはり「良い煩悩」である必要があるのではないでしょうか。

    正しい煩悩を生じさせ、その達成のために自らを努力へと向かわせること。それが即身成仏への第一歩であるように思われます。

    良い煩悩とは、万人を幸福へ導く煩悩です。その基準は決して容易ではありませんが、少しずつ意識しながら煩悩を取捨選択していくことで、その境地に近づくことができるのではないかと考えています。

  • 煩悩と空のあいだで ―― 空海の言葉を手がかりに

    煩悩と空のあいだで ―― 空海の言葉を手がかりに

    定義できない世界と「空」

    私たちは、とかく物事を定義し、はっきりさせようとします。しかし、物事を厳密に定義することは、本来不可能なのではないでしょうか。量子力学の世界においても、存在そのものは確率でしか表現できません。

    このように考えると、すべては諸行無常であり、何一つ定めることができないまま流れていると言えます。そして、その流れに身を任せて生きていくということは、すべてが空であるという理解に近づくことでもあります。


    流れに抗う人間と煩悩

    ところが、人はなぜかこの流れに抗います。その結果として煩悩が生まれ、その煩悩をよりどころとして喜怒哀楽が生じます。そうして幸福や不幸が織りなされていくのが、人の世というものなのでしょう。


    空海の喝破 ―― 煩悩と成仏

    空海は、煩悩があっても成仏できると喝破しました。それは、物事の真実が「空」であると認識できたからではないか、と私は思います。小生は、空海が喝破したその内容を、ぼんやりと理解しようと考え続けているにすぎません。

    しかし、そのように考えようとする営み自体も、また煩悩によるものです。もともと人は煩悩を抱えて生きる存在であり、人が悟るということは、煩悩を抱えたまま即身成仏するということなのではないかと思うのです。


    悟りを広めるということ

    空海も、釈尊と同様に、自分だけが悟ることでは満足せず、多くの人々にその内容を広めようとしました。それは、悟ることの喜びを、多くの人に同じように味わってもらいたいと願ったからでしょう。

    当時、貴族に限られていた仏教を、身分に関係なく広めたことは、まさに空海の人格の高さを示すものだと言わねばなりません。


    人格という「器」

    空海は人格というものを非常に重視し、「十住心論」を唱えました。人は常に人格を磨いていかねばならない、という教えです。

    しかし、人格が低いからといって、人間として劣っているということにはなりません。その人格には、その人格なりの役割があると言えます。問題なのは、人格が十分に育っていないにもかかわらず、高い人格の段階で行うべきことを無理に行おうとするときです。そこに悲劇が生まれます。

    人格は、現在の教育で重視されている偏差値と相関するものではありません。しかし、人格をどのように磨くかという教育は、あまり行われていないように思われます。それは、人格がさまざまな経験を通して覚醒していくものだからでしょう。


    修行と成仏についての私見

    人は、自ら努力し、さまざまな分野で経験を重ねることで、少しずつ目覚めていくのだと思います。仏教の修行と人格形成は、必ずしも同一ではありません。ある程度の人格が形成されたうえで仏教的な修行を行うことで、人は悟りに近づいていくのではないでしょうか。

    人格とは、目に見えない一人ひとりの「器」のようなものです。そして、仏教の修行とは、その器なりに成仏していく営みなのだと、私は考えています。


    おわりに

    このような観点から人間を見つめ、育てていくことができれば、社会はもう少し穏やかなものになるのではないでしょうか。
    空海もまた、自らの悟りを語り広めることが、結果として人の世を安定へと導くと感じていたのかもしれません。
    私はそのように想像しながら、今も空海の言葉に思いを巡らせています。

  • 変革期の世界をどう見るか― 縁起と即身成仏から未来を考える

    変革期の世界をどう見るか― 縁起と即身成仏から未来を考える

    変革期の世界をどう読み解くか

    前回の随筆では、「世界の変革期を平和的に乗り越えるためには、歴史の事象を縁起と無常の思想を通して見つめることが重要ではないか」と述べました。
    これはつまり、これからの時代を読み解くために、仏教的な観念を一つの軸として据えるべきではないか、という問題提起でもあります。


    西洋合理主義が築いた現代世界

    大航海時代以降、ヨーロッパ文明、すなわち西洋合理主義は世界の発展を牽引してきました。
    民主主義という政治体制と、資本主義という経済システムによって、世界はかつてないほど大変豊かになったと言えるでしょう。

    この流れは、正しいか間違っているかという単純な評価ではなく、中世から近代、現代へと進む中で、より多くの人が幸福になるための選択としては、ベターなものであったと私は考えています。


    広がる格差と分断という現実

    しかし今日、この同じ流れの中で、人々の貧富の格差は拡大し、多くの人に不満が生まれ、世界は分断へと向かいつつあります。
    民主主義や資本主義そのものが悪いというよりも、それだけでは立ち行かなくなってきているという現実が、私たちの前に現れているのではないでしょうか。

    では、さらに多くの人が幸福になるために、私たちは何を加えるべきなのでしょうか。


    合理的ではない「もう一つの視点」

    私は、従来の民主主義や資本主義に加えて、もう一つの新たな考え方が必要になっているのではないかと思います。
    それは、西洋合理主義にはあまり見られない、合理的ではない何かだと私は考えています。

    仏教的に言えば、それは縁起の思想に基づき、人々が互いに関係し合いながら、さまざまな価値観を生み出し、それを楽しむという生き方です。


    八正道を土台とした多様な価値観

    その土台となるのが、仏教の八正道に象徴される「正しく生きるための指針」ではないでしょうか。
    ただ経済的に合理的かどうかで判断するのではなく、人それぞれが異なる立場や関係性の中で、生きていることそのものを肯定し、楽しめる価値観を育んでいく。

    そこにこそ、これからの時代に必要な視点があるように思います。


    「空」として生きるということ

    その根本にあるのは、「人は空である」という仏教の考え方です。
    固定された自己に縛られることなく、この人生を正しく、そして楽しく生きていくこと。
    それは決して刹那的な快楽ではなく、縁起の中で他者と関わりながら生きる、深い肯定の思想です。


    即身成仏という空海の到達点

    そして、その思想の頂点には、空海が悟った即身成仏があるのではないでしょうか。
    この身、この現実世界の中でこそ仏となる――その思想は、混迷する現代において、あらためて私たちに大きな示唆を与えているように思われます。

  • 変革期の世界をどう見るか ― 密教的歴史観

    変革期の世界をどう見るか ― 密教的歴史観

    ■ 歴史を学ぶということ

    歴史から学ぶことは、とても重要です。
    しかし、歴史をどのように捉えるかは、決して簡単なことではありません。

    よく「歴史は年表が大切だ」と言われます。確かに、歴史的な出来事を時系列で整理した年表は重要な資料です。ただし、年表に記されているのは、あくまでも「結果」として現れた出来事だけです。


    ■ 密教的に見る「歴史」

    仏教である密教は、因果応報の思想を基盤としながら、縁の働きに目を向けます。
    すべての結果には必ず原因があり、その原因は多くの「縁」が重なり合って生じます。

    しかし、その縁もまた一瞬一瞬に生まれては消えていくものです。
    つまり、年表に書かれている歴史的事象とは、時間の流れの中で縁がかななり合って生じた「ある一断面」を切り取ったものに過ぎないと言えます。


    ■ 本当に見るべきもの

    重要なのは、単なる出来事の羅列ではありません。
    時間の流れ全体の中で、縁がどのように展開し、その結果として一つの事象が現れたのかを観ることです。

    諸行無常の観点からすれば、時間は刻々と流れており、過去の事象がまったく同じ形で繰り返されることはありません。
    しかし、縁の展開が似ていれば、似たような出来事が起こることはあります。


    ■ 歴史から何を学ぶのか

    もし、その出来事が悲劇を生むものであったなら、私たちはそれを回避しなければなりません。
    そのために必要なのは、「何が起きたか」ではなく、縁がどのようにつながり、どこで歪んだのかを見極めることです。

    悪縁を断ち切ること。
    それこそが、歴史から学ぶべき本質ではないでしょうか。


    ■ 現代と100年前の類似

    現在、世界は大きな変革期にあるように感じられます。
    これまで当たり前だと思われてきた社会秩序が、根本から変わろうとしているように思われます。

    この状況は、歴史的に見ると約100年前の世界とよく似ています。
    当時は、第二次世界大戦という未曽有の悲劇を経て、新しい国際秩序が形成されました。


    ■人類がするべきこと

    今、人類がなすべきことは、同じ悲劇を繰り返すことではありません。
    争いによってではなく、平和的な手段によって、より豊かで、多くの人々が幸福になれる新しい秩序を生み出すことです。

    そのために重要なのは、過去の歴史を単なる出来事として振り返ることではありません。
    どのような縁が重なり、どこで歪み、悲劇へと至ったのかを丁寧に見つめ直すことです。

    悪縁とは、突然生まれるものではありません。
    恐怖を煽る言葉、分断を助長する情報、他者を単純に敵味方に分ける思考が、時間をかけて結びつき、やがて大きな悲劇を生み出します。
    悪縁を断ち切るとは、こうした思考と情報の連鎖を早い段階で見抜き、手放すことに他なりません。

    現代は、情報が瞬時に世界を巡る時代です。
    だからこそ、歴史の事象の表面的な類似性だけを語るのではなく、その背後にある縁の結びつきを冷静に見極める姿勢が、これまで以上に求められています。

    縁起と無常を見つめ、対立ではなく関係性として世界を捉える密教的世界観は、この時代にこそ必要な視点です。
    そして、その思想を長い歴史の中で培ってきた日本には、新しい社会の在り方を示す役割があると、私は考えています。

  • 2026年元旦に寄せて ―― 空海の願い

    2026年元旦に寄せて ―― 空海の願い

    新年あけましておめでとうございます。
    本年も、すべての人々が穏やかに、そして幸福であることを、心よりお祈り申し上げます。

    新しい年の始まりにあたり、あらためて空海という人を、時を超えて思い浮かべてみたいと思います。

    空海は、仏教の本当の姿、そして、ものごとの本質を求めて唐に渡り、密教を学び、そこに深い真理を見出した人でした。
    彼が日本へ持ち帰った密教は、それまで十分に整理されていなかった仏教の教えを、思想としても、実際の生き方としても、わかりやすく伝えようとする試みであったように思われます。

    それは、すべての生きとし生けるものが、この身このままで仏となりうる――「即身成仏」という、とても切実で、現実に寄り添った教えでした。

    当時の日本は、天皇を中心とした国家のかたちが整えられていく時代であり、仏教もまた、国を守るための宗教として大きな役割を求められていました。
    国家安泰や五穀豊穣、疫病退散といった祈りは、当時の人々にとって切実なものであり、空海もまた、そうした願いを否定したわけではありません。

    けれども、空海の密教は、王権や国家のためだけのものではありませんでした。

    空海が見つめていたのは、貴族や農民といった立場の違いを越えて、日本に生きる「すべての人」の姿であり、その幸せであったように思います。
    言葉を持たない人、学ぶ機会に恵まれなかった人、日々の苦しみの中で生きる名もなき人々――そうした人々であっても、生きたまま仏となることができる。その可能性を示す道として、密教は形づくられ、実践されていきました。

    密教は、遠い未来に救われることだけを約束する教えではありません。
    今ここに生きているこの身、この心、そしてこの世界そのものが、すでに仏のはたらきの中にあることを教えています。
    だからこそ空海は、書き、語り、祈り、そして人々が学ぶ場を開きました。真言密教を通して、誰もが自分の内にある可能性に気づいてほしい――空海は、そう願い続けたのでしょう。

    2026年を迎えた今の日本もまた、不安や分断を抱えながら歩みを続けています。
    経済や政治、技術がどれほど進んでも、人の心の悩みがなくなることはありません。
    だからこそ、空海が目指した「すべての人の幸福」、すなわち即身成仏という考え方は、今の私たちにも、静かに語りかけてくるように思われます。

    この一年が、誰か一部の人だけの成功や繁栄ではなく、名もなき一人ひとりの尊厳と幸せが大切にされる年となることを願いながら、空海の志に、そっと心を寄せたいと思います。

    新しき年の始まりに、合掌。

  • 空海の思想から考える、今日の日中関係

    空海の思想から考える、今日の日中関係

    もし空海が現代に生き、今日の日中関係を目にしたなら、ニュースで語られるような単純な「善か悪か」「味方か敵か」という見方はしなかったでしょう。

    空海なら、「煩悩に振り回されている状態」と「煩悩をうまく扱っている状態」という視点から、世界や国家の姿を見つめたのではないかと思います。


    即身成仏とは「欲をなくすこと」ではない

    空海が説いた「即身成仏」は、欲や迷いをすべて捨て去ることを理想とする教えではありません。

    人は生きていれば、
    欲もあれば、不安もあり、怒りを感じることもあります。
    それはごく自然なことです。

    大切なのは、そうした感情や欲望に振り回されてしまうかどうかです。


    問題なのは「煩悩」ではなく「煩悩に支配されること」

    この考え方は、国にも当てはまります。

    どの国にも、

    • 自国を守りたい、
    • 豊かになりたい、
    • 影響力を持ちたい

    という思いがあります。

    それ自体は、決して異常なことではありません。
    しかし問題は、その欲が理性によってコントロールされているかどうかです。


    中国共産党の行動をどう見るか

    現在の中国を動かしている中国共産党の行動を見ると、国民全体の幸福よりも、党の権力を守り、拡大することに強くとらわれているように見えます。

    その際、「偉大なる中華」という物語が、権力維持のための煩悩として利用されているようにも感じられます。

    その結果、
    周辺国との緊張が高まり、
    世界全体に不安を与える状況が生まれています。

    こうした状態は、煩悩を政治権力が利用しているように見えますが、やがてそれが制御できなくなる危険をはらんでいます。
    つまり、智慧を失った状態に近づいているとも言えるでしょう。


    空海は「中国そのもの」を否定しただろうか

    ここで大切なのは、空海が「中国」という国や、中国の人々そのものを否定したとは考えにくい点です。

    実際、空海は唐の時代の中国に渡り、その最先端の学問や仏教思想を学び、日本へと持ち帰りました。

    空海にとって中国は、対立すべき存在ではなく、学びと交流の対象でした。
    だからこそ、空海が問題にしたとすれば、それは文化や民族ではなく、智慧を失い、煩悩に支配された権力のあり方だったのではないでしょうか。


    日本にも問題はあるが、大きな違いがある

    もちろん、日本にも煩悩はあります。

    利益を優先しすぎること
    保身に走ること
    弱い立場への配慮が足りないこと

    こうした問題は、日本にも確かに存在します。

    それでも民主国家には、煩悩が暴走し続けないための仕組みがあります。

    権力を批判できる自由
    選挙によって政権を交代させる制度
    多くの人の幸福を考えようとする価値観

    完璧ではありませんが、間違いを修正できる道が残されています。


    中国共産党の野望を止めるということ

    中国共産党の行動を止めるべきだ、という考えは、中国を敵として憎むこととは本質的に異なります。

    それは、
    煩悩に振り回された権力が、
    世界を不安定にするのを防ぐために、
    理性と節度を重んじる国々が協力する、
    という意味です。

    空海の考え方に近づけて言えば、中国共産党の煩悩に振り回されるのではなく、智慧によってそれを抑制し、コントロールしようとする姿勢だと言えるでしょう。


    即身成仏の視点で見る国際社会

    即身成仏とは、「いつか理想の世界が来る」という思想ではありません。
    今この瞬間に、どう生き、どう振る舞うかを問う考え方です。

    それを国家に当てはめれば、常に次の選択が問われます。

    力を持ったとき、支配するのか
    それとも、自制するのか

    欲望を広げ続けるのか
    調和へと向けるのか


    おわりに──空海からの問い

    煩悩を抱えたまま悟る。
    この空海の逆説は、現代の国際社会にもそのまま当てはまります。

    国も人も、欲を持って生きています。
    しかし、その欲に振り回されるか、理性によって扱うかで、未来は大きく変わります。

    もし空海が今を生きていたなら、私たちに静かにこう問いかけたのではないでしょうか。

    「あなたは、欲を持って生きているのか。
    それとも、欲に支配されて生きているのか」

    この問いは、中国だけでなく、日本にも、そして私たち一人ひとりにも向けられているように思われます。

  • 煩悩を抱いたまま悟るということ――空海をめぐって

    煩悩を抱いたまま悟るということ――空海をめぐって

    空海は「即身成仏」を唱えました。
    生きたまま仏になれる、すなわち悟ることができるという思想です。これは、死後の救済を語る多くの宗教観とは決定的に異なるものだと思われます。悟りは遠い未来に約束されるものではなく、今この瞬間、この身体、この心において可能である――そのような宣言であったのではないでしょうか。そしてその結果として、社会全体が幸福へと向かっていく、そうした構想でもあったのではないかと感じられます。

    もちろん、空海が生きた時代背景や精神状況を、現代において正確に理解することはできません。しかしながら、その核心にある発想――「生きたまま悟ることができる」という一点は、時代を超えてなお鮮烈に私たちに迫ってきます。空海自身もまた、その悟りに至った方であったのではないかと、私には思われます。

    では、悟りとは何でしょうか。
    それは、人は空であり、空は人であるという事実を、理屈としてではなく、存在全体で了解することではないでしょうか。自己と世界、主体と客体が分離しているという思い込みがほどけ、すべてが相互に支え合い、流動し、一つのはたらきとして現れていることを知る。そのとき、人は世界と対立する存在としてではなく、世界そのものとして生き始めるのだと思われます。

    しかし、人は煩悩を持って生きています。欲望があり、執着があり、迷いがあります。けれども考えてみますと、人は煩悩があるからこそ活動し、活動するからこそ生きているとも言えるのではないでしょうか。もし煩悩を完全に捨て去ってしまったなら、人はもはや何物でもなく、空になってしまう――そのようにも思われます。

    空海の卓越した点は、まさにここにあるのではないかと感じます。
    彼は煩悩を否定しませんでした。すべての煩悩を捨て去らなければ悟れない、とは考えなかったのです。煩悩を抱えたままであっても悟ることはできる。そのうえで、人は現実の世界を生きていける――空海はそのことを深く理解しておられたのではないでしょうか。

    即身成仏とは、聖人になることではありません。
    無欲で清らかで、俗世を離れた存在になることでもありません。煩悩を抱えたまま、それに振り回されることのない智慧に立つこと。世界を誤って見ていた眼差しが転じ、同じ現実がまったく異なる意味を帯びて立ち現れること――それが悟りなのではないかと思われます。

    また、空海が目指したものは、個人の覚醒のみにとどまるものではなかったように思われます。一人でも多くの人がこの悟りに触れ、世界の見え方が変わるならば、人の行為が変わり、社会が変わり、やがて世界は幸福へと向かっていく。その意味において、即身成仏は内面の救済であると同時に、きわめて現実的な世界観であり、社会への構想でもあったのではないでしょうか。

    煩悩を抱えたまま悟る。
    この一見矛盾しているように見える言葉の中に、空海の思想の本質があるように感じられます。人間を人間のまま肯定し、そのうえで世界の真実を生きるよう促す。その静かでありながら力強い声は、千年以上の時を経た今もなお、私たちの足元に問いを投げかけ続けており、今日を生きる私たちにとっても、大きな指針となるのではないかと思われます。