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  • 諸行無常の中の縁――煩悩と選挙をめぐって

    諸行無常の中の縁――煩悩と選挙をめぐって

    煩悩と空――善悪が生まれる構造

    煩悩を語り始めると尽きることがありません。前回の随筆で、私は「良い煩悩」という表現を用いました。しかし仏教の世界観に立てば、すべては空であり、実のところ良いも悪いも存在しません。
    ただし、諸行無常の流れの中では、時間的な差異によって「良い時」「悪い時」が生じ、その結果として煩悩にも善悪があるように見えてくるのです。

    短期的には良いと感じられることが、長期的には悪となる場合もあり、その逆もまた然りです。絶対的な基準が存在しない以上、私たちはその時その時、諸行無常の流れの中で判断するしかありません。


    判断が新たな煩悩を生むという逆説

    しかし重要なのは、その判断行為そのものが新たな煩悩を生み、縁の結びつきによって、さらに大きな諸行無常を引き起こしていく点ではないでしょうか。
    判断しなければ社会は成り立ちませんが、判断することで煩悩は増幅し、流転していく。この逆説の中で、私たちは生きています。


    核反応としての縁と社会

    この構造は核反応に似ています。一部の小さな反応が連鎖し、やがて全体として大きな反応へと拡大していく。行き着く先は分かりませんが、その根源はすべて同じ――空なのです。
    煩悩を実践するという「反応」が生じ、縁が結ばれることで、社会は成り立っているようにも見えます。


    仏教的視点から見る日本の選挙

    この仏教的視点から現在の日本の選挙を見ると、多くの示唆が得られます。
    たとえば、立憲と公明の関係は良縁なのでしょうか。中道という抽象的概念によって良縁のように装われていますが、実態は選挙に勝つための野合という側面も否定できません。

    両者にとっては「選ばざるを得ない縁」かもしれませんが、日本政治全体にとって見れば、時代の流れに抗う勢力が一つにまとまり、やがて諸行無常の中に埋没していくことで、結果的に変化を促進する良縁とも考えられます。


    自民党の複雑な縁と時代の加速

    自民党はさらに複雑です。党内には良縁と悪縁が混在しているように見え、中途半端な状態にあります。しかし、高市首相が、この選挙で勝って権力基盤を強化するならば、政治の変化が加速させ、日本は否応なく変化していくのではないでしょうか。


    リーダーとは「縁を選ぶ者」である

    仏教的には、すべての社会もまた諸行無常の流れの中にあり、絶対的な良し悪しは存在しません。しかし、人間社会、あるいは日本というコミュニティに視点を限定した瞬間、縁の良し悪しは否応なく立ち現れます。そしてリーダーは、その縁を選択せざるを得ません。

    リーダーが縁の選択の決断をしなければ、コミュニティは収拾がつかなくなり、最悪の場合、分裂へと向かいます。一方で、誤った縁、すなわち悪縁を選んだ場合にも、ある一定期間の結果は決して良いものにはなりません。


    選挙とは、縁の選択である

    もし今回の選挙が、リーダーの選択する「縁」を問う選挙であるとするならば、多くの人々は、高市首相が選び取ろうとする縁を支持しているのかもしれません。

  • 煩悩についての一考察

    煩悩についての一考察

    煩悩とは何か ― 苦と生のエネルギー

    煩悩(ぼんのう)とは、心を乱し、苦しみや迷いを生み出す人間の欲や感情、そして執着のことを指します。繰り返し述べますが、人間には必ず煩悩があります。煩悩は苦の原因であると同時に、生きるエネルギーそのものでもあります。もし煩悩が完全になくなってしまえば、それは「空」になってしまうとも言えるでしょう。

    人生とは、この煩悩との格闘の連続であるように感じます。煩悩が達成されたときには喜びが生まれ、達成できなかったときには挫折を味わい、そして再び立ち上がる。煩悩を糧として、人の人生は織りなされているのではないでしょうか。


    個人と社会における煩悩

    私は、個人が煩悩を持つのと同じように、社会集団もまた集団としての煩悩を持つと考えています。問題となるのは、これらの煩悩が第三者に影響を及ぼすことが少なくないという点です。場合によっては、第三者に悪影響を与えてしまうこともあります。

    このような煩悩は、たとえ達成されたとしても、個人においても社会においても、決して幸福には結びつきません。煩悩とは、本来、達成されたときに自分も幸福になり、同時に周囲も幸福になるものであるべきでしょう。


    良い煩悩という視点

    達成されたときに自分も幸福になり、周囲も幸福になる煩悩こそが、「良い煩悩」と言えるのではないでしょうか。煩悩を単に否定するのではなく、その質を問い直すことが重要だと考えます。

    個と集団は本質的に同じ存在です。これは「空」の理論から見ても必然であり、個人の煩悩の達成は社会全体の煩悩の達成につながります。その結果として、多くの人が幸福になる可能性が生まれます。

    例えば、「おいしいものを食べたい」という煩悩は、その欲求が満たされることで喜びが生まれるだけでなく、おいしいものが多くの人に提供される可能性を広げ、それを生産する人の幸福にもつながります。このような煩悩は良い煩悩と言えるでしょう。

    一方で、「おいしいものを自分だけが食べたい」という煩悩になると、妬みや不満が生まれ、不幸な側面も発生します。この場合、その煩悩は必ずしも良い煩悩とは言えません。


    即身成仏と煩悩の在り方

    空海は「即身成仏」を説きました。煩悩を持ったままであっても成仏できる、という教えです。しかし、その煩悩はやはり「良い煩悩」である必要があるのではないでしょうか。

    正しい煩悩を生じさせ、その達成のために自らを努力へと向かわせること。それが即身成仏への第一歩であるように思われます。

    良い煩悩とは、万人を幸福へ導く煩悩です。その基準は決して容易ではありませんが、少しずつ意識しながら煩悩を取捨選択していくことで、その境地に近づくことができるのではないかと考えています。

  • 煩悩と空のあいだで ―― 空海の言葉を手がかりに

    煩悩と空のあいだで ―― 空海の言葉を手がかりに

    定義できない世界と「空」

    私たちは、とかく物事を定義し、はっきりさせようとします。しかし、物事を厳密に定義することは、本来不可能なのではないでしょうか。量子力学の世界においても、存在そのものは確率でしか表現できません。

    このように考えると、すべては諸行無常であり、何一つ定めることができないまま流れていると言えます。そして、その流れに身を任せて生きていくということは、すべてが空であるという理解に近づくことでもあります。


    流れに抗う人間と煩悩

    ところが、人はなぜかこの流れに抗います。その結果として煩悩が生まれ、その煩悩をよりどころとして喜怒哀楽が生じます。そうして幸福や不幸が織りなされていくのが、人の世というものなのでしょう。


    空海の喝破 ―― 煩悩と成仏

    空海は、煩悩があっても成仏できると喝破しました。それは、物事の真実が「空」であると認識できたからではないか、と私は思います。小生は、空海が喝破したその内容を、ぼんやりと理解しようと考え続けているにすぎません。

    しかし、そのように考えようとする営み自体も、また煩悩によるものです。もともと人は煩悩を抱えて生きる存在であり、人が悟るということは、煩悩を抱えたまま即身成仏するということなのではないかと思うのです。


    悟りを広めるということ

    空海も、釈尊と同様に、自分だけが悟ることでは満足せず、多くの人々にその内容を広めようとしました。それは、悟ることの喜びを、多くの人に同じように味わってもらいたいと願ったからでしょう。

    当時、貴族に限られていた仏教を、身分に関係なく広めたことは、まさに空海の人格の高さを示すものだと言わねばなりません。


    人格という「器」

    空海は人格というものを非常に重視し、「十住心論」を唱えました。人は常に人格を磨いていかねばならない、という教えです。

    しかし、人格が低いからといって、人間として劣っているということにはなりません。その人格には、その人格なりの役割があると言えます。問題なのは、人格が十分に育っていないにもかかわらず、高い人格の段階で行うべきことを無理に行おうとするときです。そこに悲劇が生まれます。

    人格は、現在の教育で重視されている偏差値と相関するものではありません。しかし、人格をどのように磨くかという教育は、あまり行われていないように思われます。それは、人格がさまざまな経験を通して覚醒していくものだからでしょう。


    修行と成仏についての私見

    人は、自ら努力し、さまざまな分野で経験を重ねることで、少しずつ目覚めていくのだと思います。仏教の修行と人格形成は、必ずしも同一ではありません。ある程度の人格が形成されたうえで仏教的な修行を行うことで、人は悟りに近づいていくのではないでしょうか。

    人格とは、目に見えない一人ひとりの「器」のようなものです。そして、仏教の修行とは、その器なりに成仏していく営みなのだと、私は考えています。


    おわりに

    このような観点から人間を見つめ、育てていくことができれば、社会はもう少し穏やかなものになるのではないでしょうか。
    空海もまた、自らの悟りを語り広めることが、結果として人の世を安定へと導くと感じていたのかもしれません。
    私はそのように想像しながら、今も空海の言葉に思いを巡らせています。